『アルカディア』の話その1:トマシナとセプティマスなど

※2016/05/06投稿記事

 

舞台『アルカディア

SIS company inc. Web / produce / シス・カンパニー公演 アルカディア

 

 

美しい。終演の余韻、それだけをずっと噛み締めてしまうような、素敵なお芝居でした。


日本ではこれが初演。事前に本国での劇評などを読み、『英国の知的な庭園ジョークが炸裂する(意訳)』と聞き、「いやそんなのわかるわけがなかろうさ??」と困惑したものですが、とにかくこの演目が日本で上演されるのはすごい事なんだ、そこに集まった役者さんもまたすごい方ばかりなのだという事だけでドキドキしたものです。そんな芝居に安西くんが出るのだ…と。

今回、今までにないわくわくがありました。
例えるなら、親の部屋に忍びこみ、わけもわからず古い本やレコードを手にとるような。イイ年ですが、そんな背伸びをして新しい世界を覗くような期待がありました。


さて、私は4/7、14、21の観劇でした。21は立ち見。
まずは幕が上がり、舞台装置の美しさに「これは絶対いい舞台だ…」と確信してしまいました。
テーブルの後ろに大きな白い格子の窓とドア。その奥が通路として広くなっており、背景は庭園のイメージと思われる抽象的イメージ。何より、屋敷の優雅さを表現したやわらかな明かり。
とくに照明による時間の経過が美しく、1幕終わりにゆっくりと西日がさしてゆくグラデーションや、2幕終盤の夜の青い色。あんな色、どうやって出すの?
朝日が昇るまえの朝5時の闇と、深夜の闇の青もきちんと違いました。綺麗だったなあ…。

そして、役者さんたちの達者な事!
いやもう当たり前のことなんですけど、声が通る。台詞も通る。表情だけじゃなくてきちんと声色、動きで芝居が伝わる。ただ彼らの台詞を聞いてるだけで心地良い。
やっぱり役者さんってすごいなあ。


今回私が一番大好きになってしまったのが、天才少女、トマシナ。
理想の、完璧な、少女でした。

終盤に、曲調もわからないのにワルツを踊る事をねだる姿が子供の背伸びだなと思いつつ、私が一番ハッとしたのが、セプティマスがトマシナの導きだした理論でいつか来る世界の終末に気づいてしまい絶望するシーン。
「それなら、踊ればいいじゃない!」というあの台詞。
世界の終わりよりも、今このワルツが大事だというあの10代の少女らしい感覚。
セプティマスは、そんな彼女がたまらなく眩しかったのだと思います。

数学少女というモチーフは、文学少女とはまた違う、プラスティックな清潔さ、無垢さがあります。
世界のあらゆるものは数式で表せるのだと高らかに言うあの子の非・有機的な感覚。
そして何より、あの子の唯一の肉欲的抱擁は、美しいワルツ。それだけ。なんて綺麗な存在なんだろう。
そして、あの天真爛漫な無邪気さがあるからこそ、余計にラストシーンが美しく切ない。
趣里さんという女優さんは、それを完璧に表現なさっていたと思うのです。


対してセプティマス。
もう、素敵でしたね…。冗談を言おうが下品な話をしようが、ずっと気品があるの。ずるい(笑)。

しかし、あんなに飄々として、悔しいほどハンサムでクレバーなあの人が、なぜ隠遁者になったのか。
『世界は終末に向かう』という概念を知った時のショックぶり、当初私にはピンときませんでしたが、科学がいまほど進化していなかった時代、さらに悠々と日々お貴族様の暮らしをしてきた彼にとっては考えた事もない恐ろしい事だったのでしょうか。
そこに、トマシナの死。
本当に気が狂ってしまったのかはわかりませんが、彼はやがて来る未来への警告のためなのか、彼女の存在を遺し続けたかったのか、ひたすら一心不乱に散文を書き殴り続けていたと思うと悲しくて仕方ありません。
カヴァリー家の人たちは、レディは、そして次期当主となったであろうオーガスタスは何を思っていたのか。


やだもう、久々のブログなのにさっそく長い(笑)。
一旦次の記事に分けます。